発表70年『星の王子様』の作者の実像


 サンテックスことアントワーヌ・サン・テクジュペリは、日本では発表70 年を迎える『星の王子様』の作者としてだけで知られている。 従って、なんとなく世の中を斜めに見ている優男の姿を想像してしまう。
 実際の彼は血の気の多い熱烈な愛国者であった。戦時の飛行機乗りとしては 高齢の44歳で、偵察機の操縦士としてアルプス方面の写真偵察任務から未帰 還になった。
 この功であろうか、彼は手厚い顕彰を受けている。リヨンの生家のある通りは、勿論サン・テクジュペリ通りで、広場にはルイ14世の像と共に プチ・プリンスとサンテックスの像が建ち、リヨン国際空港はサン・テクジュペリ空港と命名されている。
 さらに2002年2月17日まで流通した最後の50フランス・フラン紙幣の肖像でもあった。彼はドビュッシー、 セザンヌ、エッフェルなどフランス各界代表に伍して、文学者代表になっていたのである。
 マルセイユ沖では、莫大な費用と手間をかけて彼のロッキードF-5B偵察機 の墜落地点が特定され、残骸や遺品(腕輪)が回収保管されている。

 サンテックスは生涯11回の飛行機事故を起こした。そして12回目が1944年7月31日のF-5Bでのマルセイユ沖への墜落であった。11回のほとんど全てが不注意やミス、無謀な操縦によるもので、飛行停止などの処分を何度も受け、重傷も負い、生涯にわたった後遺症もあった。 偵察部隊とはいえ、高齢で多数の事故歴があり、操縦も大してうまくない彼が実戦任務に就けたのは、既に文学者として名が売れているのを利用し、 アメリカ軍上層部をも動かして自分を売り込んだからと言われている。
 メッサーシュミット109に撃墜されたというその最期も、単機で低空を漫然 と飛んでいた、 すなわち不注意からだったと推定されている。F-5Bの高々度飛行性能を利して高空を高速で飛行していたら、無事帰還できたであろう。 しかし、それでその後、彼が天寿を全うできたかどうかはまた別の話である。

                                        2013年2月25日

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リヨンに向かう高速道路。
リヨン国際空港は、正式に サンテクジュペリ空港である。


リヨン。生家のある通り

生誕100年で、通りの名前が変更された、という感じ。

右。生家。1900年6月29日、
アントワーヌ・サン・テクジュペリここに生まれる。













左;べクレール広場の像。

中;2000年に発行された生誕100年記念切手シート。3フランは普通定型封書用。

右;欧州共通通貨のユーロになるまで使われた最後の50フラン札。




ロッキードF-5B写真偵察機シリアル42-68223。
双発で左右逆に回るパッカード・アリソンV-12気筒エンジン装備。
乗り心地は空飛ぶキャデラックだった。


最後の仕事場コックピット。これは原型のP-38のもの。

回収された遺品のブレスレットとF-5Bの前脚F-5。






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