ポーリング大明神に額づいていた頃


 学園紛争の嵐をかい潜って入学した大学で、1年生教養課程の化学を担当して下さった理学部の田中教授は厳しかった。 最初の授業の時「諸君らは、将来化学で飯を食うのだから、その基礎を私がみっちり仕込んで差し上げます」と睨め回し、 始業5分前に学籍番号順に着席している事、遅刻入室は許さない、試験は年1回だけで追試は無い、と宣言された。
 その試験では、以前起きた集団カンニング事件で関係した学生全員を退学させたという伝説があり、 単位を取るには勉強するしかないと観念させるに十分な迫力があった。
 教科書はポーリングの『General Chemistry』の原書。先生は熱烈なポーリング信奉者で、 毎回ポーリングのサイン入りの『The Nature of the Chemical Bond』を携えて来て教卓に置き「 これは諸君らの化学の修業を見守るポーリング大明神である」と称した。
「化学とは」で始まった先生の授業は、学生と先生との短い討論形式で進められた。先生は学生の答えの途中でも容赦なく突っ込んでくる。 窮してもあがき続けると許されたが、あっさり「判りません」、と降参すると全員に経典たる『General Chemistry』のその件に関する記述の暗記が命じられた。 それは次の時間、先生の気分次第で突然当てられるのでさぼれなかった。最初の時間の「物質とは何か」という設問では誰も先生を満足させる事が出来ず、 クラスが全滅してしまった。
 答えるも地獄、答えられなくても地獄、先生と格闘するような授業に付いていく為に我々も勉強した。アジ演説と立看板の間を縫って早々に教室に入り、 傾向と対策も練った。その成果もあって後期になると先生の顔も和み、ポーリングの来日講演の様子、逸話などについても話してくれるようになった。 学生との議論においても、苦笑ではなく楽しそうに笑うことも多くなった。
 そして一年が過ぎて最後の授業。 「諸君らは私が出会った中で最高のクラスである。諸君らを教える事ができたのは教師冥利に尽きる。有難う」という思いもかけない言葉を頂いた。

                             2013年4月11日


1. 学園紛争
日大の不正経理、東大医学部の封建体質打破などに端を発した大学改革運動。それに1970 年安保継 続問題、ベトナム反戦などが加わった若者の社会現象。
1969 年には東大と東京教育大(筑波大)の入試が中止された。大学によって運動の激しさの程度は 異なっており、入試も授業もほぼ平常通り行われた大学も多くあった。
東大入試中止は、当然1969 年の入試で受験生の段階的地滑り現象を起こした。

2. ポーリング
ライナス・カール・ポーリング Linus Carl Pauling, 1901 年2 月28 日 - 1994 年8 月19 日
アメリカの化学者。ノーベル賞を二回受賞(化学賞(1954)、平和賞(1962))したことで知られる。 強烈な個性の持ち主で、信奉者が多い反面、敵視する人も多かったという。
ビタミンCの大量摂取は免疫を高めると提唱した人。自身も10 グラム/日摂っていた。
平和賞は部分的核実験停止条約(大気圏内の核実験停止)締結への尽力。

3. General Chemistry
ポーリング著の理系大学生向けの化学入門書=教科書。略してジェネケミ。

4. The Nature of the Chemical Bond 化学結合論
1939 年に書かれたポーリングの名著。1954 年のノーベル賞は事実上この本に与えられ、以降ポーリン グは全世界の化学者の上に神様として君臨する事になる。この本は他の化学者の著書に2000 回近く引用されてい るという。DNAの構造決定レースでポーリングに勝ったワトソンは、ヒントを求めてこの本を隅々 まで熟読したと言っている。
田中教授の名言
「男は黙ってポーリング」
「行きもポーリング、帰りもポーリング」
「ポーリング位偉くなると・・・」
「君たちはポーリングの不肖の弟子だ」

5. 立て看、アジ演説
各セクトが、大学の至る所に立てた自らの主張やデモへの参加、授業放棄などを呼び掛ける看板。
今でも新学期の新入生勧誘か学園祭などで(主張は違うが)見られるが、当時は年から年中、至る所 に(時には教室への入室を妨害する目的で)立てられた。
アジ演説は、アジビラを配りながら各セクトの色のヘルメットをかぶって独特のイントネーション で行う演説。アジビラは全部貰うと一日数十枚なった。
キャンパスはこうした各セクトの活動家が右往左往、彼らが撒くビラ、立て看とその残骸などで極 めて乱雑で汚かった。校舎内や教室の壁や窓にもビラが貼り巡らされていた。

6. 物質とは何か?
平たく簡単に言うと「物質とは空間に、或る位置を占める体積があり、質量があるもの」である。

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