新府 武田怨念の城


新府城は、天正9年に甲斐国への北の入り口である諏訪口に向けて築かれた平山城である。
釜無川への300尺の絶壁である西側を除く三方に堀と胸壁を巡らせ、万余の兵を収容する大規模要塞の経始は眞田昌幸の手になる。しかし落日の武田には翌10年の織田・徳川の侵攻に際し、守備するに最低限の兵を揃える事さえ出来なかった。 新府は城主武田勝頼公自ら火を放って放棄した武田怨念の城である。
 富士武神社は新府城址に祀られ、東側に長い石段の参道を持ち、広大な本丸跡の片隅に本殿、拝殿、神楽殿などを配した普段は無人の神社である。 4月20日の例祭に出る神輿は小ぶりであるが、249段の石段を駆け登り、拝殿前で屋台店を薙ぎ壊しながら参拝の若い娘達を追い回す暴れぶりが見ものになっている。

 清造と作一は同級で、中学を出た年からこの神輿を担いでいた。
 3月、強く生温かい南風の落ち着かない空気が若い血を騒がせ、清造は作一を誘っ た。
「今夜、お新府さんに夜参りいくど」
「今夜あ、お月さんもねえし、真っ暗だど」
「なんだあ、おっかねえだか」
 暗闇の中、清造は尻込む作一を従えて石段を上がり拝殿の前に出た。夜参りの目標 は本殿の裏手、鬱蒼とした松林の外れにある勝頼公の石廟である。 風が八ヶ岳からの雨交じりの北風に変わり、赤松の梢を鳴らす音も物凄く、大きな 滴が叩きつけてきて隣にいる筈の作一の気配も感じない。
 廟が見渡せる場所に来た時、懐中電灯の明りに無数の土饅頭が浮んだ。廟の脇にいた若い女の白い顔が動き目が合った。 土饅頭の群れが突然蠢きだし、伏していた鎧武者が武具の鳴る音と共に一斉にこっちに振り返った。
「!」
 踵を返すとざわつく篠竹の藪に無数の雑兵が潜んでいた。手に手に得物が光る。
「逃げろ」
 暗闇を遮二無二走る足元が一気に切れ落ちているのを感じた時、右にいた作一が一 段と強い旋風に煽られてぶつかってきた。 二人の体が絡まりあいながら弾んで漆黒の闇に飛んだ。
                                                                 (2013年3月28日)
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 茅が岳の麓から。1978 年冬
 正面は薬師・観音・地蔵の鳳凰三山。右端で頂上に雲が掛っている甲斐駒が岳、一番手前の枯れ草とそれに続く色濃い木々はごく近景。
 画面下を横切る黒い森(B)は七里岩と呼ぶ八ヶ岳の火砕流台地と塩川の氾濫原(C) を隔てる東斜面で約 50mの標高差。現在の塩川は茅が岳側いっぱいの所を流れている。
「村」は私の生家がある村。中央本線はここまで(B)の東側斜面を横切って(トラバースして)25/1000で登ってくるが ここから七里岩台上を走る。新府駅は台上にある。  この位置からの夜景は単なる田舎の夜景であるが、中央線の電車が来ると真っ暗な(B)斜面を電車の窓の明かりが移動するのが見える。これは暗黒の宇宙を行く「銀河鉄道」として 人気があり、現在ではその展望台がある。

「新府城祉」の文字下の黒く見える森全体が城址として残っている。濠の跡などはさらに外側にある。新府桃源郷はその右の斜面の向こう側及び右側に広がっている。
 七里岩台地は西すなわち画面奥に向かって登りの傾斜になっており(東側が低い傾きのある台地)、A-Aを結ぶあたりで一気に今度は釜無川の氾濫原に向かって切れ落ちている。 その高さは東側よりはるかに高くて険しく、100m位ある垂直の断崖である。
 韮崎で分かれる国道20号線と142号線は、20号線が釜無川沿いに、142号線は塩川沿いに信州に向かい、20号線は県境の複雑な地形を抜けて諏訪へ、 142号線は1000m近い標高差を登り、清里を経て野辺山に出る。どちらも戦国の時代に大軍が移動できた道はなく、諏訪から甲府=古府中に抜けるには、 現在の中央本線同様に、八ヶ岳の麓から七里岩台上を南下するしかなかった。新府城はその南下ルートを扼する位置にある。
 Google Earth で八ヶ岳からこの辺りを見て頂くと面白いと思う。
 

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