ギターをとりて爪弾けば

 老後のクオリティ・オブ・ライフを破壊する原因の筆頭は老人性痴ほう症(認知症)だという。
 認知症予防には楽器の演奏が良いらしい。神経が集中している指先を左右別々かつバラバラに使い、加えて楽譜を読んで指の運動に翻訳して指令を出すといういう脳の活動もある。
 学生時代クラシックギターのサークルに入って四年間精進した、楽器もある、そうだこれだよ、とギターを再開することにした。しかしこれまでの五十年間はギターは断続的に、それも触った程度、教則本の最初でさえ怪しい。
 愛器は国産のハンドメイド品。卒業後五年ほどした時、製作者の直弟子という人に偶然合い、楽器を預けてそれまでの十年間の摩耗や狂い、傷などの修理をして貰った。その時「これで一生使えますよ」と保証された。丈夫なハードケースに入れて保管してあるので、弦さえ替えれば完璧である。
 クラシックギターの演奏スタイルは椅子に腰掛けて左膝に楽器を載せる。その左足には演奏時かなりの体重がかかるから、高さ調節ができる丈夫な専用足台が必要になる。譜面もテーブルにでも置けば良いように思うが、譜面台を立てた方が格好良い。ピックは使わず、生身の爪で弾くので爪の手入れも重要である。薬局で爪成形専用のやすり、DIY店で一番細かい紙やすりを求める。とはいっても、ここまでの投資はナイロン弦一セット六本含めても合計一万円位、楽器さえあれば再建の為の投資は大したことはないのである。
 学生時代はタッチは硬いが華やかな音のハイテンション弦を使っていたが、見栄は捨て、柔らかく押さえやすいローテンション弦にする。調弦には古典的手法ではA音の音叉を使うが、現在ではチューニング・メーターという文明の利器がスマホの無料アプリで手に入る。六本の弦それぞれに音の高低が視覚化され、あっという間に調弦完了。これで演奏の準備は整った。譜面は初歩の教則本から演奏会用の難曲、はたまた『影を慕いて』まで山ほどある。

「昔取った杵柄」が通用するのはギターの構えと左右の指の弦へのタッチの角度まで、その指を動かすのはまったくままならない。それらしい音を出すには教則本の最初から単音、和音、半音階、音階、分散和音、と段階を進めながら反復練習するしかないが、昔出来たことが出来ないのはもどかしい。それでも繰り返しているうちに左手指先にギター胼胝ができてくる。すぐ疲れて力が抜けてしまう左手小指も頑張れるようになってくる。
 ある程度さまになってくると上を目指して先生に就こうか、という気持ち と、気ままにやりたいという気持ち のせめぎ合いになる。二年生の春、発表会デビューで弾いた二長調のメヌエット、「十六分音符がもたれる」としごきあげられたのは若き日の思い出としては良いが、今となってはああいうのは御免だとも思う。

 三年生の時、六曲からなるギター組曲二短調に挑戦した。毎晩のように下宿に押しかけて教えを乞うた当時大学院生だった先輩は名手として尊敬されていた上、面倒見が良く、慕う後輩が集まった。この先輩は七年ほど前に他界してしまったが、彼が集合をかけてくれたかのように、その葬儀への参列がきっかけで昔の仲間が年一、二回集まるようになった。

 彼らの顔を見るとそれぞれがどんな曲を弾いていたかが浮かんでくる。どの曲にも思い出があり、ギターを構えると気持 は二十歳に戻り、窓ガラスに映る姿に、五十年の歳月を越えて、ステージでスポットライトを浴びたあの日がちらちら被る。仲間のギター復帰の話もちらほら聞こえてくる。ここは一番、先生に就いて修行研鑽し、スペインの現代の名器ホセ・ラミレスを買って、もう一度あのステージを目指すか。



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