1964年の東京オリンピック。報道写真機材は、35ミリカメラが主流となって10年あまり経った頃で、一眼レフ、連写用モータードライブ、ストロボフラッシュ、超望遠レンズなどが投入されて大活躍し、カメラ王国日本を揺るぎないものとした。写真の感光材料はハロゲン化銀の銀塩フィルムであった。
競技結果の公式速報は、大型電算機で集計され電子写真製版オフセット印刷システムにより印刷配付された。ともに操作は人海戦術だった。
大陸間の衛星中継放送は始まったばかりで、ブラウン管カラーテレビが庶民の手に届くものになったが、液晶ディスプレイは理論の実証実験段階だった。
写真機材はその後も、カメラ側から軽量化、露出決定の自動化、オートフォーカスの高速・高精度化、銀塩フィルム側から高感度化、微粒子化、色再現性、保存性などの絶え間ない改良が図られた。東京からアトランタまでの30年間、9回のオリンピックにおいて決定瞬間は、より鮮やかに、より印象的に、銀塩フィルムに捉えられた。この間、1984年のロサンゼルス大会で、デジタル写真機材が試験的に投入された。その性能は銀塩写真の足元にも寄れるものではなかったが、速報性だけは注目された。
画像のプリント技術も銀塩写真頼みだった。1988年のハレーすい星接近時、欧州連合の観測衛星ジオットが彗星の核のデジタル映像撮影に成功、地球に送って来た。この映像をその場で紙の写真とする当時唯一の方法は、ブラウン管上の静止画をインスタント銀塩写真システムのポラロイドで撮影することだった。
その頃、銀塩写真を使わないカラ―プリント技術の研究に従事していた私たちは、実用に耐える最低品質のカラー画像の情報量は、A4版で1メガバイトと計算していた。これは今日振り返ってみても妥当だと思う。しかし、当時の1メガバイトは高密度8インチ(20センチ)フロッピーディスク1枚分に相当し、プロ限定だった。その数千倍の情報量を素人が歩きながら手の中で扱う時代が来るとは想像もしていなかった。
2000年のシドニー大会では報道用撮影機材はデジタル写真が主流になった。撮影し、画像処理してメディアに載せるシステムとしてのデジタル写真の総合力が、ついに銀塩写真を上回ったのである。時を同じくして、液晶テレビがブラウン管テレビを総合力で上回りつつあった。
21世紀最初の年、世界の銀塩写真フィルムの年間売上が史上最高額を記録した。しかし、翌年からアマチュア用の写真機材とテレビが、既に市場にあるものを含めて根こそぎの規模でデジタルへ置き換えられ始めた。
そして北京を経てロンドン。100年以上オリンピック報道を支えてきたコダック社がこれを最後にスポンサーの座を降りた。フィルムメーカーは軒並み破たんか事業撤退や業種転換を余儀なくされ、電機メーカーのブラウン管工場も次々と閉鎖された。共に長い間製造者に莫大な利益をもたらした花形商品があっけなく消え去った。
リオデジャネイロ大会では報道目的としての銀塩写真は皆無であったろうし、ブラウン管テレビで見た人もいなかったであろう。
次回東京大会では日本のIT・電子機器・写真機材メーカーは威信をかけて報道の形を変えようとするだろう。
高精細化、高密度化する撮像素子やレンズ、巧妙化する画像処理技術、これらとAIを合体させれば全く新しい報道形態が可能となるであろう。
見る人とAIがリアルタイムで対話しながら、最大限の感動が得られる動画と静止画とそれに音響を入り混ぜてつくるカスタマイズ中継。そんなことも夢ではないかもしれない。