私の『吾輩は猫である』

 中学1年の国語の教科書に、『吾輩は猫である』の吾輩が餅を食って踊りを踊る場面があった。このとき私は、この本を、子供向け翻案でなく、文庫本で読んでいた。
 大学で日本の古典文学を勉強したいと望みながら叶わなかった父は、息子にその望みを継いで欲しいと思ったらしい。子供のころから機械いじりと電気工作が大好きだった兄のことは純理系だと諦めていたが、そういうもの物にさほどの興味は示さなかった私には期待したようである。
 小学校三年生のとき、文庫本を買って貰った。大人になったような気分で、嬉しくて消しゴムを彫って蔵書印を作った。トルストイ民話集、グリム童話集、壷井栄、坪田譲治、宮沢賢治、などであった。今こうして並べてみると、戦前に小学校教師だった父の深慮遠謀が窺える選択である。
 高学年になると、文庫本を自分で選ぶようになった。手もとの『吾輩は猫である』は昭和35年発行であるので、父の勧めがあったのか、面白そうな題につられてのことか、とにかくここで『猫』に出会ったものと思われる。中学時代には国語の教科書にも刺激され、面白そうな場面の暗唱も試みた。
 しかし、あにはからんや、大学は化学科に進んだ。機械や電気に興味を示さなかった私のこの進路選択は、父を驚かせ、また落胆もさせたようである。
 帰省した正月、の炬燵で読んでいる本が4千円、と知るや、「増鏡が揃いで買える値段だ」と、化学の神様ポーリングの名著『化学結合論』を、日本の古典文学の下に置く扱いをした。
 父との文学論は、古典に引きずり込まれると結局は無知だと罵倒されることになるので、できるだけ父が好きな龍之介か、漱石に留まるよう努力した。
 背景が日露戦争当時の時事で、江藤淳が「高速度撮影」と評した晦渋ともいえる細密描写が特徴の『吾輩は猫である』は、格好の話題の対象だった。他の作品については、どこで虎の尾を踏むか判らず、深入りは禁物であった。
『吾輩は猫である』は、作家夏目漱石の処女作である。漱石がこの小説を執筆するに至った動機については多くの説がある。この時代の漱石は、後に『道草』に描かれるように、複雑な幼年時代を引きずった人達にまとわりつかれ、精神は半ば病み、さらに胃潰瘍に苦しんでいた。これらから逃れるため、虚子の勧めにのって書いた、という説が正しいように思う。実際、主人の苦沙彌先生を辛らつに、言い換えると、自虐的に描くことで、苦悩を和らげているように感じられる。
 何にしても、この作品で小説家夏目漱石が誕生したのは、人類にとっての慶事である。俳句を繋げているようなと自分で評した美文調の『虞美人草』もあるが、漱石の小説は言文一致体で、リズム感が良いので、読みやすく、大脳皮質に沁み込みやすい。私が高校時代、高校生に一番人気がある作家は漱石であった。
 軽快なテンポの『坊っちゃん』、瑞々しい青春『三四郎』、日本語の美しさの極致『草枕』などは、高校生にも深い感動を与える。『行人』、『こころ』、『明暗』となると、人生後半になっても、読み返すと深い感銘を受ける。
 漱石はトスカニーニと同じ歳である。第二次大戦後も世界の楽壇に君臨した大指揮者と同年齢ということを知ると、49歳の生涯と、10年間と云う小説家漱石の執筆期間がいかに短いものであったかに愕然とする。
 漱石の死の2年後、日本で最初の胃摘出手術が成功した。30代から「この胃さえ……」と自らの胃を呪い続けていた漱石は、この時生きていたなら最新の治療を受けるに躊躇しなかっただろう。
 荒れ模様の湯河原、という舞台だけ用意されて突然途切れる『明暗』が大団円を迎えたその先には、どんな世界が控えていたのであろうか。  あの世とやらにも楽しみは色々あろうが、その一つは漱石の新作が読めることである。



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