切れた鎖

「俺、マンションに変わろうと思うがどうかなあ」
 駅を隔てた反対側の丘の上に住むKから聞き慣れた口調の電話が掛ってきたのは去年の春先だった。 お嬢さん二人の結婚が決まり、夫婦だけになるのを機にマンション住まいを考えてみているとの話だった。 既にマンション住まいの私はその優位性を大いに薦め、具体化したら会って話そうということで電話を切った。

 Kとは新入社員研修で席が隣り合ったのが最初で、そこで誕生日が同じであることを知った。 門司出身で、酒を飲むと「九州」を連呼する彼に当初苦手意識を持った。
 新入社員研修が終わり、化成品製造の沼津工場で一年間実習をする化学専攻十人余りの中に、 精密機械を専攻したKがいた。これは何かの間違いで、俺はすぐしかるべき場所に移る、と彼は言い続けたが、 結局設備設計や導入などでそこに20年居座った。

 1987年、私が試験管レベルからの開発に従事していた熱転写リボンに本格投資がされ、新規事業として立ち上げる プロジェクト・チームが組まれた。私は、販売促進担当としてチーム中枢に配属された。 そこに計数感覚鋭い経営参謀に変身したKが待っていた。
 プロジェクトはスタートしていきなり本社事務機器部門の方針変更で自社需要が消え、もう一つの柱と頼んだ米国郵便向けも消えて、 肝心の売上計画が総崩れとなった。顧客開拓にKと私は国内外を東奔西走した。
 2年後、人事異動で私は事業本部スタッフとなって熱転写リボンを離れた。残ったKはそれから3年かけて売上高で当初計画を キャッチアップ、更に固定費を回収するには事業規模の拡大が必須で、そのため追加投資をする、 という超強気の案を事業本部に持ち込んできた。
 私は、この投資計画策定の事務局としてKと組むことになった。事業本部の総力を挙げた計画は本社取締役会議で決済され、 1年後新工場が稼働した。
 それを追って、フランスのアルザスにある子会社の一部に二次加工設備を導入、現地セールスも雇って欧州市場への販売の拠点を 拡大整備することになった。私は熱転写リボンに戻り、そこへの赴任を命じられた。
 Kは出張ベースでアルザスに先乗りし、設備導入、顧客挨拶回りなどをやって私を迎えてくれた。
 痛風持ちの彼は外食せず会社借り上げのアパートで自炊していた。 赴任直後、家族を呼び寄せる前の私もよく手料理をご馳走になった。得意は餃子で、極意はとにかく材料を細かく刻むこと、 と左手に包丁を持って休日には他の駐在員の家族分まで作って配っていた。

「黒字だ。九月期の本社決算で、熱転写リボンが連結黒字になった。」
 1997年秋、パリでの展示会会場に日本のKからの電話だった。黒字になるのは事前に分かっていたが、 本社発表で黒字となると格別だった。「今夜はパリでも乾杯してくれ、日本が奢らんといかんなあ」 10年間赤字事業で矢面に立ち続けた彼の声は心なしか震えていた。
 Kはその後、私と入れ違うようにアルザスに赴任、7年後私と同じく新横浜に戻った。 赴任中彼の父上が亡くなり、私は会社関係の葬儀委員を務めた。
 お互いの定年退職後は、役所などの諸手続きの窓口が全て同じで頻繁に情報交換した。 散歩のコースや日々出入りする店もかなり重なっていた。

「Kの奥さんから喪中はがきが来たが、何だあれは」
 共通の友人から来た突然の電話は、近所に住む私が怠慢だと責めているようだった。 年賀状のやりとりがなかった私は仰天し、慌ててK宅を訪問した。ご家族によると、 Kはあの電話から半年後の10月初めに亡くなり、5日後に納骨ということであった。

 11月末、横浜郊外の墓苑での送りの日は雨だった。

    雨に踏まふ銀杏落葉や友送り  良知



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