それなりの老後、最後の世代

 今から100年後、2110年の日本の総人口は約4200万人になり、その内の45%を65歳以上が占める、
と言う震撼すべき試算がある。そこへの通過点としての2025年には65歳以下が1500万人減、 65歳以上が800万人増、日本の総人口は今より700万人減って1億2000万になると予測されている。
 2110年の日本、となると考える事を放棄してしまいたいが、2025年の日本がどうなっているのか、 自分の生活はどうなっているのか、これは他人事ではない。

 人口推移を切り口にしたテーマの議論の時に必ず出てくるのは、団塊の世代という言葉である。私は昭和23年の生まれなので、世にいう団塊の世代の中心に位置している。
 子供の頃に、社会科の授業で、美しいピラミッドを描く日本の人口分布を見て誇りに思った。十代になると高校の増設が盛んになり、それは社会の活気であった。 しかし、後続世代の出生数減少がだんだん顕著になってくると、数が多すぎる世代として問題視する風潮が広まった。 そしてそこに止めとして、現職の通産官僚だった堺屋太一氏が、1976年時点から見た近未来連作短編集である『団塊の世代』を発表した。
 これは、数の多さゆえに社会を歪め、企業の正常な活動と成長を阻害する元凶として、 前後の世代から疎まれる団塊の世代を執拗に描いている。そして先行世代が築き上げた日本の繁栄の果実は、 20世紀最後の25年間で団塊の世代によって無為に食い潰され、暗澹とした21世紀を迎える場面で小説は終わっている。
 すなわち、堺屋氏は、団塊の世代を、その巨大なマス(質量)があらゆるものを壊し食い潰す、 という飛蝗のような災厄として表現した。不幸にしてこの小説はベストセラーとなり、 「団塊」と言う言葉は独り歩きを始め、団塊の世代こそ日本の社会の歪みの元凶であり、 将来起こる問題は全てその所為である、とする考え方をこの小説を読んだ人にも、読んだ事が無い人にも浸透させた。 特に現代の若い世代には、50歳台の自分の親以上の大人は全部団塊と呼ぶ厭うべきものであるという考えを抱かせるに至っている。

 冷静になって人口統計をみると、戦場から生還した男たちを父に持つ我々の世代の数が多いというのは事実であるが、 年間出生数が安定的に約200万人の水準で続いた戦前の世代に比べたとき、たかだかその15〜20%増しが3年程続いたに過ぎない。 この程度の人口分布の歪みが国家百年の災禍になる訳がない。問題は、昭和20年代後半から出生数が減り始め、 その減少に歯止めがかからなくなってしまった事にある。
 直近30年の日本の出生数が、団塊の世代が残した団塊ジュニアと呼ばれる世代同様に、年間200万人の水準を保っていれば、 100年後の人口が半減以下などという試算結果にはならなかったであろう。
 若年人口の減少と高齢層の増加という現象が増幅されながら100年続けば、社会保障制度が云々という以前に日本国そのもの存続しなくなる。
 楽観的に過ぎるかもしれないが、支えてくれる労働人口がまだそれなりにある我ら団塊の世代は、そ れなりに老いて死んでいけるのではないか、と淡い希望は持てるのであるが、飛蝗の群れが喰い荒した以後の世代は一体どうなるのであろうか。
 政治家たちが今何より先にやるべき事は、100年後の日本をどういう国にするかの基本構想を作り主導する事であろう。 女性1人に2人以上の赤ちゃんを産んでもらえる様にするのか、大量の移民を受け入れるのか、 はたまた、今の半分の人口で成り立つ社会を作るのか、今決めて実行に移さなければならない。
 100年後に極東の最貧国の廃墟の中で、20世紀の中頃に団塊の世代という特殊な世代が生まれ、彼らがこの国を滅ぼした、と語られるのはご免である。



戻る