”ある初年兵の2・26”の詳しい注


注1;真夜中の非常呼集
 第3聯隊の非常呼集は真夜中の12時頃と伝えられている。

注2;3日前の雪
 2・26といえば雪であるが、この時間に雪は降っていなかった。ただし、2月23日に終日降った雪は積雪35.5センチと東京での観測史上三番目の大雪で、2月26日にはまだ東京としては深い雪が残っていた。

注3;弾薬庫
 事件の中心的実行者、安藤輝三大尉の働きで、歩兵第3聯隊の弾薬庫からは大量の武器弾薬が運び出された。

注4;2人の歩兵大尉
 ここは、安藤輝三大尉、野中四郎大尉をイメージしている。

注5;機関銃中隊
 小さんがいた機関銃中隊では、中隊長は出張で不在、中尉の1人も事件当刻隊に不在、1人いた週番将校は、安藤大尉が出した非常呼集命令には逆らわなったが、行動には加わらなかった(事後の軍法会議で禁固4カ月の刑)。

注6;最先任は軍曹
 このため、機関銃中隊は上村軍曹が指揮するところとなった。事件後、上村軍曹は将校ではなかったため、軍法会議には不起訴、命令により除隊となった。

注7;甲弾薬箱
 持ち出した92式重機関銃の歩兵運搬用の弾薬箱。540発入りで、重量22キロ。

注8;演習ではない
 小さんの回想では実弾を見た時、これは演習ではないと直感したと言う。

注9;帝大出の初年兵 畑和
 畑は前年9月東京帝国大学法学部を卒業。大学を卒業した為に徴兵猶予が切れ、この年1月に東京と埼玉を軍管区とする第1師団の歩兵第3聯隊に、2等兵の初年兵として入営した。1910年生まれで、1915年生まれの小さんより5歳年長である。大学卒業者の兵役の方法としては2等兵で入営以外の他の選択肢もあったが、2等兵で入営という方法は、当時の状況(支那事変以前でそれほど膨大な兵力が必要というわけではない)では、2年で兵役義務ときれいさっぱり離れることが出来る短期コースとして選ぶ者がいた。
 当時の大卒は超エリートであるから、この時代ではまださまざまな伝を使って兵役を回避する者も少なくなかった。後の社会党重鎮畑は兵役義務を果たすについては偉かった。

注10;偉い人の警備
 小さんの感想。偉い人とは、やんごとなき方面を思っていたであろう。

注11;機関銃分隊を中隊に配備
 第1聯隊と近衛歩兵第3聯隊の決起部隊はこうした実戦態勢に編成替えをせず、ほぼ内務班のまま行動したという。

注12;前へ、の号令、歩兵第1聯隊に向か
 麻布の現国立新美術館の位置にあった歩兵第3聯隊からは、3方面に出撃していった。
 まず、3時30分、安藤大尉の指揮する204名が、鈴木貫太郎侍従長官邸(千鳥が淵)に向けて近衛歩兵第3聯隊脇を通って赤坂方面へ、続いて4時20分に坂井直中尉の指揮する斉藤實内大臣私邸(四谷、学習院初等科そば)/渡辺錠太郎陸軍教育総監邸(荻窪)の襲撃隊210名が外苑東通りに出て四谷方面に、野中大尉の指揮する警視庁襲撃隊がすぐ目の前の六本木第1聯隊に向けて出発した。

注12;江戸っ子
 小さんは、長野の生れであるが、親に連れられて「ごく幼小のみぎり東京に出てきたので、江戸っ子である」と称していた。弟子の小三治によると長野生まれであると言われる事を嫌ったという。徴兵当時住まいは浅草だった。麻布に入営したことから、本籍地は同じ東京であるが別の所であった可能性もある。

注13;第1聯隊に集結
 野中大尉に率いられた第3聯隊警視庁襲撃隊は、第1聯隊の外塀沿いに進んで檜坂下の裏門から第1聯隊に入り、六本木の東京ミッドタウンの裏手にある現檜町公園で、第1聯隊の決起軍と合流した。

注14;隊列が動き
 第1聯隊の栗原安秀中尉指揮の首相官邸襲撃隊280名、同じく第1聯隊丹生誠忠中尉指揮の陸軍省/陸軍参謀本部襲撃隊170名、第3連隊の野中四郎大尉指揮の警視庁襲撃隊500名の順序。

注15;檜坂を登って行く
 現在でも狭い急坂である。登りつめて左に折れ、今度はいったん一気に下る。この下りは北向きなので、残雪も深かったと思われる。右に現アメリカ大使館宿舎を見て下りきると今度は氷川神社前に向かって登りになる。東京は坂道の町である。
 決起軍は、この縦隊だけではなく、どの隊も、警察署、やんごとなき方面の宮邸、外国公館など、警備の警察官がいる場所を避けるため、こうした裏道伝いのようなややこしいルートをとった。真っ暗で残雪の中、行軍は難儀だったと思う。

注16;機関銃を担ぐ
 92式重機関銃は反動吸収架(三脚)に載せると重量55.5キロ、これに4本の専用の運搬ハンドルを取り付けて、兵隊4人でお神輿の様に担いで搬送した。1丁の92式重機関銃は下士官1名に兵10名、馬2頭で1個機関銃分隊を形成した。4個機関銃分隊に、下士官1名、兵10名、馬8頭の弾薬分隊がついて、1個機関銃小隊、3個機関銃小隊で1個機関銃中隊。とにかく人数が多いことで携行弾数が多く、発射速度が遅い(450発/分;連合軍はウッドペッカーと称した。毎分1000発のドイツ軍MG42は電動鋸と呼ばれた)こととあいまって、短時間に弾幕を張るのは苦手だが、継戦能力は高く、また、遠距離射撃での命中精度の良い有能な機関銃だった。2・26では馬は使われなかったので、全ての武器弾薬は兵隊が担いで運んだ。
 92式重機関銃は第3聯隊から10丁が持ち出され、斉藤内大臣、渡辺教育総監邸の2人に致命傷を与えた。警視庁襲撃隊は4丁を装備したが射撃はしなかった。

注17;氷川神社、南部坂
 氷川神社は、播州赤穂家浅野内匠頭の夫人(未亡人)瑶泉院の生家である三次浅野土佐守の下屋敷であった。赤穂浅野家お取り潰しの後、瑶泉院はここに身を寄せていた。そこに討ち入り前日、大石内蔵助が挨拶に来た場面を描いたのが『南部坂雪の別れ』である。芸人だった小さんは、当然この事は知っていたであろう。
 南部坂は氷川神社脇から赤坂溜池方面に下る緩いカーブの坂道で現在でも雰囲気を残している。氷川神社の石碑には昭和9年10月、内閣総理大臣岡田啓介謹書とある。栗原隊が襲撃した首相官邸の主である。

注18;虎ノ門を回り込み
 3隊は南部坂をやり過ごしその先で右折しながら緩く下って六本木通りに出、当時三叉路だった溜池を現在の外堀通りへと右折した。右折してすぐ栗原隊、丹生隊は左折して首相官邸、国会方面へ、野中隊は直進して虎ノ門を回り込んで警視庁に向かった。

注19;海軍省あたり
 海軍省は現農林水産省、ワンブロック先の左側が警視庁である。つまり、背後から襲ったことになる。

注20;警視庁を占領
 警視庁襲撃になぜ500名、機関銃4丁の大兵力を使ったかの明快な答えは出ていない。
 ひとつは、当時警視庁に編成されていた特別治安部隊、俗称新撰組、現在の機動隊対策であったと言われている。この目的なら見事達成で、圧倒的大兵力を前に警視庁の警官は抵抗できず、警視庁の無血占領に成功した。
 もう一つは、高橋是清大蔵大臣を襲撃し、半蔵門から宮城内に入って反対側の正門ともいえる坂下門に内部から向かう手筈の近衛第3聯隊の中橋基明中尉隊130名と呼応して宮城を占領し、畏れ多くも陛下の御身をなんとかせんと画策し、そのための兵力だったとする説である。
 結果は、中橋中尉は62名を率いて一時的に坂下門警備隊に合流成功するが、すぐ坂下門警備隊長であった同じ近衛第3聯隊の門間少佐に各地の襲撃の情報が入り、中橋中尉もその一味であることがばれ、中橋中尉は拳銃を抜いての談判の末、部下を置いて一人脱出して参謀本部に入ってしまい、結局坂下門は決起軍の手には落ちなかった。
 中橋中尉が高橋是清邸の襲撃などしておらず、宮城の占拠に全力を上げていたら、2・26決起は、もう少し形がついたと言う説もある。しかしながら、近衛歩3の目と鼻の先に住んでいる軍縮予算の元締めを放っておくわけにはいかなかったのであろう。

注21;乾麺麭と氷砂糖
 2月26日の朝食をどうしたのかと言う記述はあまりない。坂井中尉隊は全ての襲撃が終って、拠点である参謀本部に戻った8時過ぎに乾麺麭の朝飯を食ったと言う記述がある。また、2月26日朝の民間人目撃談に、歩哨線の兵隊が氷砂糖を食っていた、というのがある。乾麺麭と氷砂糖は帝國陸軍の典型的携帯用野戦食であるので、兵隊にはこれが配布されていたのであろう。
 ただし、非常呼集時に各自に配付され携行していたものなのか、輜重隊によって運ばれ現地で配付されたものなのかはっきりしない。決起軍の食事は、反乱軍とされるまでは主に原隊から運ばれ、加えて、占領地域にあった「山王ホテル」と中華料理の料亭「幸楽」から金を払っての炊き出しも受けた。この炊き出しは反乱軍とされてからも続いたようである。
 決起軍のピケットラインは常に殺気立った厳しいものではなく、民間人もライン内に入れたし、将校たちはピケットラインの外へ兵隊たちの食事やおやつの買い出しに出たりしたようである。
 しかし、決起軍には基本的に兵站への配慮が欠けていたため、たった1〜2日の兵糧攻めで困窮してしまう羽目になる。戦後に「ロジスティックス」という考えそのものが無かったと揶揄される帝國陸軍の体質なのか。

注22;雪
 その日、昭和11年2月26日は大雪であった。積雪量は当日分だけで10センチ以上、三日前の残雪と合わせると、所によっては20センチを越えた。この雪は2・26事件に強烈なインパクトをあたえ、「降りしきる雪の中での行軍と襲撃」というのは2・26描写の定番になっている。
 しかし、現在と同じ場所にあった気象庁の公式記録では2月26日の雪の降り始めは午前8時8分となっている。2・26事件の舞台は荻窪を除くと、千代田区と港区の一部の狭い地域なので雪の降り始め時刻に大差があったとは思えない。
 従って、深夜の非常呼集から午前5時頃に一斉に始まり、15分後には終わっていた襲撃の背景には雪は降っていなかった(一番遅かった荻窪の渡辺邸襲撃も午前6時半には終わっていた)。ただし、その時足元には東京としては異例に深い残雪があった。
 行軍や襲撃時に雪が降っていたという証言もあるが、それは信用できない。嘘というのでなく、後の印象が入り込んでしまっている可能性がある。これは『兵士の証言=目撃者の証言』の常である。

注23;俺たちは反乱軍
 最初、「お前たちの気持ちは良く判る」と言う評価もあった決起であったが、27日午後に陛下の断固たる決意表明があり、2月28日中には討伐すべき反乱軍であることが確定、29日朝には討伐の命が下った。有名な「兵に告ぐ」の「今からでも遅くないから」のラジオ放送が行われ、投降を促すアドバルーンが上がり、飛行機からビラが撒かれた。原隊からの補給は勿論止まり、炊き出しも底を付き、決起軍は反乱軍として戦車や砲の重火器を含む2個師団(歩兵第1師団、近衛歩兵第1師団)を主力とする討伐軍に包囲された。

注24;子ほめ
 上官の命令で『子ほめ』を演じたと言う話は、小さんの2・26を語る上で必ず出てくるエピソードである。『子ほめ』は前座噺で、小さく笑わせる仕掛け=擽り=が至る所にあって、開演直後で落ち着かない客に寄席の空気を無理やり吸ったり吐いたりさせてなじませる性格を持つ。この場では最適の演目であったであろう。聴衆の中には畑2等兵もいて、後に彼も「誰も笑うものはおらず、全く受けなかった」と回想している。
 ちなみに、『睨み返し』は、大晦日に借金取りを追いかえす噺で、全盛期の小さんが得意にした。

 
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