20120715©MoTak.

311以来殆ど標語化した<きずな>、辞書第一義

は<動物を繋ぎ止める綱>、非人間用束縛ツール!

第二義<断つに忍びない恩愛、離れがたい情実>は

人間の話、だがそれはその関係から生じた<結果>、

目的として行なうのは偽善的、別な不幸を生むかも。

たとえば<親子の絆>、<就活ウツ>の一因と聞く。

子は小、中、高、大、十数年間鞭打たれ続けた挙句、

この氷河期に有名企業への就職を期待され、、では

<恩愛>も重圧、可能なら<断ち>たい、が<離れ

がたい>現実、、心も病むだろう。 子に夢を託す

のは親の身勝手、超自我的理想の実現を子に強いる

なんて虐待同然、、と親自身は気付かず、<絆>を

嫌ったはずの子らがそれをコピー反復する、不思議。

幸い我が4匹の子豚はウツ体験無しにそれぞれの道を歩んで来て孫豚も計7匹、、昔はアタリマエだった一体感本位家族、ご先祖様に感謝して止まないが、

各自積み重ねて来た選択の<結果>でもある。 逆に、<孤独死>も基本的にはその人の選択、マスコミは安直に<地域の絆>を唱えるが、果たしてそれ、

<作る>とか<結ぶ>とか出来るものだろうか、私は疑う。 民生委員の訪問すら拒む高齢者もいるし、世代交代的新来の非高齢町民は多く無愛想無関心、、

この恵まれた凸凹町ですら<地域の連帯>期待困難。 思うに、いっそ<孤独死の自由>は認め、ただし衛生的法務的処理の遅滞が生ぜぬよう、その自由

を選ぶと言う人には死亡信号自動発信器?の設置や装着、<処理>方法の事前申告を義務付ける、とでもするのが実際的だろう。 一応の工業技術先進国、

これほど人情希薄化万差億別化が進んだからには、情緒的<絆>抽象論は後回しにしてでも、、! と敢えて蛮勇を揮う政治家、現われ出てはくれぬか。■

★ 離れて見守る? ('12-7-5/Lumix38) 本能で体を寄せ合う、理性知性で<個>族化する、、 ★    ■<ホーム>へ  ■<ギャラリー>へ