緑土喪失  20070309©MoTak.

('07-3-1 / Olympus C-755/E-100RS)

凸凹町民となった44年前にはあちこち

畑があり大樹聳える邸宅も多く、時折

商用で大阪方面へ赴くとあまりにも緑

や潤いが乏しく、気の毒に感じたもの

だが、もはや大した違いは無くなった。

世代交替に伴い、1戸分だった敷地に

建蔽率無視、周囲セメント仕上げのが

数戸、それを妨げる樹木は伐り払われ、、

新来の人々は近隣に親しまず、大地震

の日まで言葉を交わすことも無さそう。

同質性が高い? 大臣、バカ言うなよ。

 

東海道五十三次第一泊は品川の宿、つまり江戸は山手線の内側、だから桐ヶ谷はその外、死骸を焼いて苦情が出なかった地目山林、、と志ん生が

十八番<黄金餅>で教えてくれた。 さすがに<秋刀魚>は獲れぬが、<元>競馬場があったり後にそこが<林業>試験所に化けたり、目黒は緑

豊かな田園だった。 その名残か凸凹町の一角には<五穀を司る倉稲魂神>の社、即ちお稲荷さん、の森が<あった>。 周囲ギッシリの住宅へ

の配慮で畏れず神木を取り除いたり枝を切り詰めたり、その結果僅か残された大ケヤキも今や気息奄々、<都会の木>なる画が出来そう、、 で、

ある朝カラス入りで1発。 じゃ夕方も、と望んだが巣も架けられぬ裸の木、寝に来るわけ無かった。 乾いた風の街、水蒸気は遙か上空に、、■

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